ASEAN50周年を記念して開催中の「サンシャワー展 」に行ってきました〈前編〉
先日、「六本木発、アートフェス!」サンシャワー展 に行ってきました。
六本木ヒルズ内の森美術館と同時開催中ですが、まずは国立新美術館の方へ。
東南アジアの現代アートにはどんな特色があるのか?
そもそも“サンシャワー”とは何か?
なぜ、今なのか。
〝人口約6億人。経済発展目覚ましい東南アジア地域の現代アートには、世界から大きな注目が集まっています。国立新美術館、森美術館、国際交流基金アジアセンターは、ASEAN(東南アジア諸国連合*)設立50周年にあたる2017年、国内過去最大規模の東南アジア現代美術展、「サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」を開催致します。
「サンシャワー(天気雨)」は、晴れていながら雨が降る不思議な気象ですが、熱帯気候の東南アジア地域では頻繁にみられます。また、植民地主義以降の20世紀後半、冷戦下の戦争や内戦、独裁政権を経て近代化や民主化を迎え、近年では経済発展や投資、都市開発が進むなど、さまざまな政治的、社会的、経済的変化を遂げてきたこの地域の紆余曲折とその解釈の両義性に対する、詩的なメタファーでもあります。
多民族、多言語、多宗教の東南アジア地域では、じつにダイナミックで多様な文化が育まれてきました。本展では、自由の希求、アイデンティティ、成長とその影、コミュニティ、信仰と伝統、歴史の再訪など、東南アジアにおける1980年代以降の現代アートの発展を複数の視点から掘り下げ、国際的な現代アートの動向にも照らしながら、そのダイナミズムと多様性を紹介します″
(国立新美術館公式HP:http://www.nact.jp/exhibition_special/2017/sunshower/)より
上の概要を読んでいてふっと思い出したのは、シンガポール初代首相のリー・クアンユーがマレーシアからの独立時の政策として、旧日本軍による占領に対して発した「Forgive, but never forget(許そう、しかし忘れまい)」というスローガンでした。
このサンシャワー展には20世紀の2つの世界対戦について直接言及した作品はありません。
当時のシンガポール政府が、(戦争責任を追及するのではなく)新しい国家の建設への前向きな姿勢を表明し、のちに現在のような国際都市としての発展を果たした以上は、この企画展でこの話題について語る必要はなかったんだろうな〜とは思います。
とはいえ、ASEAN50周年という節目もあるのか、先進国による植民地主義それ自体はこの展覧会の重要なテーマの1つで、その傷跡については実際に出品中の多くの作品が触れているためにどことなく個人的に頭から離れない問題でもありました。
同じ時代を生きている作家が、作品を通じて表現する考えをどうしたらより深く理解できるのか…その線引きって本当に難しいものですね。
上:展示室内の様子。国立の美術館には珍しく、写真撮影はOKのためパシャパシャ撮れて楽しかったです。
下:イー・イラン〈うつろう世界〉(パンフレットより)
展示室の入り口を通ってすぐに始まるのは〈うつろう世界〉というセクション。
各々のアーティストが意図的に主観を入り交ぜた想像の世界地図が並んでいました。
パッと見では、現代の日本の発想にはないものが描かれていることが多いため、まるで六本木にいながら東南アジアに旅行したかのようです。
セクション名と同じ名称のイー・イラン〈うつろう世界〉のように、この地域の理想像や未来予想図を描いたもの、あるいは身近な自然素材を生かした創作物や作家が目撃した悲劇をモチーフにした作品が並んでいます。
是非、実際に行って空間を体感して欲しいと思います。
そして、次の〈情熱と革命〉のセクションに移ります。
まず目に付いたのは、普段は喧噪の中に埋もれてしまう人々の痛みや苦しみ、そして哀しみの歴史の表現でした。
上:FXハルソノ〈遺骨の墓地のモニュメント〉
上から2番目:ワサン・シッティケート〈青い10月シリーズ〉、〈失われた情報〉
下から2番目:ホー・ルイアン〈ソーラー:メルトダウン〉
下:マーイ・チャンダーウォン〈戦禍〉
全体に、血の色や肉体の生々しさを想起させる描写の作品が多く、観るのにも体力・気力を要求されます。
と、同時にウィットにも飛んだ内容の作品群でもありました。
例えば、ワサン・シッティケート〈失われた情報〉では、プラカードの1枚に「FREE IS NOT FREE」と書かれているのがとても意味深。自由は自由じゃないとは、どういう意味なのか…?
さらにパステルカラーの配色が優しいマーイ・チャンダーウォン〈戦禍〉は、実は空襲の瞬間を描いたとんでもないディストピアで、最も胸の苦しい作品の一つでした。
その次の、〈アーカイブ〉のセクションもこの地域の特徴が色濃いムーブメントでした。
上:〈アーカイブ〉のセクション全景
下:ウティット・アティマナとクリティーヤ・カーウィウォン〈チェンマイ・ソーシャル・インスタレーション〉の説明映像
そもそも検閲が厳しい東南アジア諸国では、アート作品として形にすることすらも許されない概念も多く、結果的に多くの無形のパフォーマンスが発表されてきた経緯があります。
だから、インターネットを介して情報を集め、アーカイブとして活動の記録を残すことが最近の潮流の一つになっています。
下の写真のモニター内に映っているタイのチェンマイ大学美術学部教授のウティット・アティマナは、具体的に何をどのようにアーカイブするのかを説明しています。
彼は、「アートは現実を発見するプロセス」と解釈しています。
もちろん、世界中の才能を一堂に集めて開催している伝統的な展覧会であるドイツのドクメンタやイタリアのヴェネツィア・ヴィエンナーレに招聘されて参加することも素晴らしい成果なのですが、彼は、タイのチェンマイで開催された〈チェンマイ・ソーシャル・インスタレーション〉がその2つとは異なる独自の文脈・価値を持っていることを示唆しながら、土着的な地域と海外をつなぐためのアーカイブ化を進めています。
上:〈さまざまなアイデンティティ〉セクションの説明文
下:リー・ウェン〈奇妙な果実〉で使用された提灯オブジェ
続いて展示は、東南アジア諸国の人の移動の問題に焦点を当てた〈さまざまなアイデンティティ〉のセクションに続きます。
パンフレットのオモテ面にプリントされている、リー・ウェン〈奇妙な果実〉が展示されているのもこのセクションです。
(どの作品かよくわからない方は、この記事の冒頭で上から2番目に写っているパンフレットをご参照下さい)
なぜ、彼は全身に黄色いペンキを塗り頭から巨大なオブジェを被って街を彷徨っているのか?
私の場合、事前の予習なしで観に行ったからというのもありますが、ちょうど展示全体の折り返し地点にあったことも重なって、「自分自身が黄色人種であることの再確認」をこんな形でできるものなのか、と感じ入っていました。
また、全体的にこのセクションでは未来に向かって前向きに前進したがゆえの東南アジア各国(特に、シンガポールやマレーシア)の社会の歪みがもたらした、華僑の人々の苦難の歴史を思い知らされもしました。
既にある程度基盤の形成された国(マレーシア)に後から移民することによって受ける不平等の痛ましさと、逆に、国家(シンガポール)が教育インフラを整備したがゆえに次々に未知の社会問題が発生するキリのなさ…日本の国内メディアではあまり大きく取り上げられない内容だと感じたので、新鮮でした。
上・中:イー・イラン〈薔薇色の眼鏡を通して〉
下:シャーマン・オン〈ヌサンタラー海は歌い風は我々を運ぶだろう〉
他にも、個人の記憶を明確に表すために映像や写真などデジタルな媒体を用いた作品が多く、前の世代が集団(コレクティブ)で無形の表現で主張してきたメッセージを有形の作品に落とし込んだのがこれらの作品だという言い方もできそうでした。
どの作品を切り取っても多種多様な人生に出会えます。
そして、新美術館での最後のセクションは〈日々の生活〉。’90年代以降に活動するアーティストの傾向が色濃く反映されています。
それまでの章とは薄っすらと時間軸的に後の時代の作品が多く、抽象的でメッセージ性の強さが前面に出ている「こと」の表現から、人々の暮らしや営みを支える身の回りの「もの」をモチーフにして素材そのものに焦点を当てた新しい文脈を生み出す手法へと変化していく様子が見られます。
より全身で、五感を刺激される作品が多く、外部の人間からはなかなか見えない何気ない現地の日常を伺い知ることができました。
以下の2つは、前章までとは打って変わって遊びの要素が多分に含まれた作品でした。
上:スーザン・ヴィクター〈ヴェールー異端者のように見る〉
下:スライシー・クソンウォン〈黄金の亡霊(どうして私はあなたがいるところにいないのか)〉
〈黄金の亡霊〉には、総量5トンのカラフルな糸屑の中に、9本の金のネックレスが隠されていると説明書きがされているので、こぞって捜索する人で溢れていました。靴を脱いで上がった室内は、映画やマンガなどフィクションの中に登場する海賊やハンターに、勝るとも劣らない鬼気迫る女達のパワーで充満。笑
上・下:アングン・プリアンボド〈必需品の店〉
この〈必需品の店〉作品自体がお祭りの出店のようになっていて、店内のレジに品物を持っていくと…
どうして、こんなことが思いつくのか本当に不思議です。笑
(そういえば、この展示には特設のミュージアムショップがなかったなと書いてて気づきました)
最後まで一通り会場内を回ってあらためて痛感したのは、当然のことながら国や地域が違えばものの見方・考え方が、根本的な枠組みから違ってくるということでした。
こんな時代なので、余計に…。
19世紀以降、この地域に暮らす市井の人々とアーティスト達がどのように過去に向き合い、激動の時代を生きてきたのか。経済発展の中で新たに直面している問題とは何なのか?
今回の展示ではその片鱗を垣間見たに過ぎませんが、私なりに思うことを挙げてみると…
それはまず、IT化や経済発展にともなって生まれた現地の社会問題のうち、日本の国内では知られていない問題が視覚化され得体の知れない何かが身体の底からゾクゾクと迫ってくるのを肌で感じられたこと。
そして、常に新たな課題と格闘して作品を発表する各々のアーティストたちの観察眼や探究心、表現力がいかんなく発揮されて生きる力の強さに圧倒されたということで、脇目もふらずに未来の発展を追い求める現地の雑踏の中へと足を運んでみたくなる内容でした。
あと一ヶ月程の会期の間ですが、これを読んだあなたも他の企画展やイベントと一緒にこのサンシャワー展を訪れて、芸術の秋を楽しむヒントにしてくだされば幸いです。
(後編@森美術館に続く)